| 子供の不在。 『ニキータ』VS『アサシン』論
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時代は変わった。『ニキータ』、それは「凶暴な愛の物語」などではないはずだった。 これはスパイ映画ではないか。「スゴ腕女スパイ誕生。あなたのハートを狙い撃ち」とかいったコピーがついていたはずだ、世が世なら。女スパイの元祖はテレビの「ハニー・ウエスト」か、「アンクルから来た女」か。リュック・ベッソンが子供の頃、60年代後半には、殺し屋映画ってのもいっぱいあった。『殺人者たち』『殺しのライセンス』『殺しのテクニック』『狼の挽歌』。 ブツクサとセリフ喋り過ぎのフランス映画を避け、娯楽映画に浸っていたはずのベッソンのアイディアの源泉に、こうしたスパイ映画や殺し屋映画の記憶がゴロゴロしていたに違いないことは想像するにやさしい。ニキータが送り込まれる訓練所の風景。こういう場所では必ず柔道や空手が訓練科目になっているのはなぜか。ボクシングやレスリングじゃダメなのか。『007カジノロワイヤル』にも同じような部屋が出てきた。あの映画のすごさは、当時のスパイ映画に対して観客が期待していたことをすべて見せてくれたことだ。パロディなんだから当たり前か。しかしあの訓練所に出てくるミス・マネーペニーは素晴らしかった。ショーン・コネリー主演の007シリーズでは中年のおばさんなのに、そこではヒロインよりも若くて美人でセクシー。作戦行動上重要な「キスのテクニック」までテストしてくれるのだ。 時に、本家007映画よりも番外編である『007カジノロワイヤル』を評価する変人がいるように、『ニキータ』もいいけどハリウッドでリメイクされた『アサシン』もけっこういけるよ、と思ってる人間もいるってことである。 ハリウッド版ニキータ 『アサシン』はブリジット・フォンダを主演に、監督に『ブルーサンダー』などのアクション職人監督ジョン・バダムを迎えて92年に製作された。チェッキー・カリョの演じた「ボブ叔父さん」をガブリエル・バーンが(役名も一緒)、恋人役(ジャン・ユーグ・アングラード)をLA の若手俳優ディラン・マクダーモット、ジャンヌ・モローの女教官をアン・バンクロフトが演じた。全編70%はセリフまでほとんど一緒、レストランでのアクションシーンの構図やカット割りまでそっくりである。冒頭のチンピラも「掃除人」も人間の脚を持って引きずりながら歩くのさえ一緒だ。あまりに芸が無いの声もあるようだが、むしろ「リメイクだからまったく違う映画を作ろう」といった気負いがまるっきりないのがいっそ爽やか。よい部分はそのまま使いましょう、でもオリジナル『ニキータ』にもちょっと検討の足らない部分はあるので、そこだけは変更します。そんな製作態度。オリジナル版はヴェニスへ旅行へ出かけるが、『アサシン』の主人公はワシントンから、カリフォルニアの「ヴェニス・ビーチ」へ移り住む。この地名は、運河があってヴェニスそっくりな町だからという理由でつけられたという。なかなか自虐的で愉快なロケーション選択ではないか。 大きな変更点は2点しかない。最後の大仕事が、ソ連大使館へ男に化けて忍び込むのではなく、核兵器情報を売っているアラブ人の家へガールフレンドに化けて入り込むこと。女のニキータがソ連(当時)大使に変装、しかも帽子と眼鏡とコートを借りただけで簡単に大使館へ入って行けてしまうなんて……ンな、バカな。いかにソ連という国がいい加減な国だったかという皮肉を描く以外には通用するまい。スパイ映画ファンはあそこでガッカりである。せっかくの掃除人(ジャン・レノ)のカッコよさが半減だ。ちなみに『アサシン』の掃除人ヴィクター役のハーヴェイ・カイテルは役を作り込み過ぎて失敗。情け無さそうに出てきて、最後の死に方も情け無いんじゃ死んでも死にきれんかったろうに。 もうひとつは、『アサシン』の主人公が黒人歌手ニーナ・シモンが好きという設定が加えられ、コードネームも「ニーナ」になっている点だ。最後にヒロインが去り、男同士が語りあうのは同じだが、ガブリエル・バーンが「この(ニーナ・シモンの)レコードをもらっていいか」と訊ね、ジャケットを眺めながら「ニーナが大好きだった」と呟くところはとても効果的だ。ニーナ・シモンという人は、ジュリアード音楽院でピアノと作曲を学んだインテリなのに、ジャズ、ブルース、映画でも流れるビートルズ・ナンバーまで歌った「自由」な黒人歌手で、アメリカの音楽文化を真剣にとらえ直そうとする創作態度がライ・クーダーなどにも通じるとてもユニークで重要な歌手だ。ブルースなどの黒人音楽を「再生」しようと試みた歌手を登場させるというアイディアはなかなか秀逸ではないか。さらに、ブリジット・フォンダがシモンのオリジナル曲「I want a Little Sugar in my Bowl」(私の壷に砂糖をちょうだい)を、ヒワイな意味に訳してみせる場面があったと思うが、ああいった黒人文化への傾き加減は、さりげなく主人公の特殊性や組織人間との世代の違いを強調している。格好だけはパンクだが、その思想的な裏付けがまったくない『ニキータ』に比べて、『アサシン』の脚本のほうが優れている部分だろう。 おそらく「演技力」や「存在感」の点では、アンヌ・パリローのほうがブリジット・フォンダよりも優れているに違いない。が、観客が理解しやすく、もうひとついえば「キレイになったね」とボブが褒める言葉を素直に聞けるのはブリジットのほうではないか。パリローは、まず殺し屋としての肉体を持った女として映画の中に存在する。鍛えられた肉体は見るからに力強い。ブリジットは、とても殺し屋にはみえない可憐な少女として画面に映る。ピーター・フォンダの娘として知られる彼女だが、8歳の頃に両親が離婚、父親が弟だけを引き取ろうとしたことがトラウマ(精神的障害)になっていたという。極端にセリフを減らし、画面の力だけで映画を観せていこうとするベッソンが、肉体的にタフなパリローを選んだのは理解できる。一方で手堅いアクション演出で定評のあるバダムは、多少ヒヨワでも、可憐さと、ラストの飾られた写真に見られるような虚ろで寂しげな瞳を見せられる少女を主役に抜擢した。それは何故か。 疎外された人間が、何かをきっかけに癒され、さらに次のステップを踏み出す、という図式は、『グラン・ブルー』『ニキータ』『レオン』『フィフス・エレメント』と一貫するベッソンの大きなテーマだ。しかし、とすると、ブリジット・フォンダのほうが、ジャン=マルク・バール、ナタリー・ポートマンといった他の作品の主人公に近いとは考えられないか? 透明感というか、エンド・タイトル後の彼らの姿を想像するときの不安感を観客に残してくれる魅力的な脆弱さ。簡単に「幼児性」といいきってもいいだろう。パリロー「ニキータ」は、ひとりでも立派に生きて行けるに違いない。下手をするとゴルゴ13のようなフリーの殺し屋となってしまうかも……。ここで、気づいたけれど、確かアンヌ・パリローは『ニキータ』の前にベッソンとの子供ジュリエットを産んでいた。なるほど、母は強し。そうすると、パリロー「ニキータ」は、母性愛をたぎらせて演じていたことになる。一方で、ブリジット「ニーナ」は母性愛を求める少女を演じた。ニーナ・シモンを好んで聞くのは、母親が好きだったからという理由も語られる。「ニーナ」は母の愛を求めているのだ。そして、ニキータはギリシャの「勝利の女神=ニケ」に通じ、「ニーナ」はスペイン語の「子供=ニーニョ」に通じる。 少年の頃のスパイ映画へのあこがれを元に『ニキータ』の脚本を書いたときから、ベッソンは少女をヒロインにするつもりでいたのではないか。そして、いつのまにやら「妻」(当時)を主演させねばならない環境にいたことに後で気づいた。そして、少女としてのリアリティよりも殺し屋としてのリアリティを取ったのだ。はっきり言ってしまおう。ベッソンは『ニキータ』に満足していない。でなければ、一卵性双生児のような作品『レオン』をのちに作ることはあるまい。惜しげもなく『ニキータ』の再映画化権をハリウッドに売り渡したことも合点が行く。 ベッソンは『ニキータ』で失敗した。だが、『アサシン』を見た彼は、自分のアクション演出がハリウッドに認められたという自信を得、アメリカ・ロケの『レオン』へと進む。また、映画のヒロインは少女でなければならないという定義にも気づいたのだ。幸運だったというべきか、偶然にも、オリジナル脚本をしっかり読み込み、映像的にもオリジナル版の良さを素直に認めて追従したジョン・バダムが指揮した『アサシン』は、ベッソン版にかけていた作家性の欠点までもリメイク版で補完してしまったのである。 |
| キネマ旬報社「リュック・ベッソン」掲載(1998年) |
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